2014-02-28

確定申告。今年は郵送だ。

オーシャンズ13を観ながら、といってもタイマー代わりに流していたのだけれども。ときどき、手がおろそかになる。この楽しい悪ふざけの映画は3つどれもおもしろい。あちらの役者たちの芸達者ぶりがそこここに浸みだしていて楽しい。アルパチーノとガルシアはゴッドファーザーで義理の親子になりかけたし。Vincent Casselこきみいい。
税金は払える方がいいに決まっている。税金も払えないほどの収入ではやってはいけない。けど高いなあといいたくはなる。

2014-02-19

続けよう

碓氷峠の話だ。僕らは・・・思い出してきた。あれは現詩研(=現代詩研究会)のきっと合宿の帰りだ。あるいは、あかいとりの合宿の帰りだ。現詩研ならきっとアセガが大日向あるいは西君で、あかいとりなら間違いなく若狭だ。そうなのだ。あの木々。もやっとした空気の湿り気。軽井沢の合宿所。浅間山の風景。横川の釜飯。いくらでも・・・ここにも題材が埋まっていたんだ。日本航空の仲間と訪れた記憶はない。彼らは全て薄い印象しかもっていないのだ。同じ制服、同じバック、同じブランド、全部が貧しい。物語が不足しているのだ。

2014-02-14

なんだろう

中島みゆきのローリングは、僕を高田馬場へつれていく。いつでも皆がいて騒いでいた。くだらないことで笑ってけんかして酒飲んでふざけていた。けれど。気がつくとあの街に残っていたのは僕ひとりだった。あまりに長く学生を続けていたために。あまりに長く大学に居続けたために。仲間はみな卒業していってしまった。立ち止まっていた時間があまりに長かった。動き出したのは、故郷に戻ってきてからだ。

2014-02-06

纏わり付いてきて離れようとしない空気がある

不安というのでもなく、恐怖というのでもない。キルケゴールは結局正しくない。
声の大きなヘーゲルの方が好きだ。彼はどこかまちがっているけれども、でも好ましい人物ではある。

書くものすべてに意味があるわけではない。

けれども、すべてに意味がないわけでもない。価値はないかも知れないけれど、ほんの少しの意味ならあるかも知れない。

考え込んでしまう

自分自身について、己の人間の小ささについてだ。度量があまりにも小さい。他人や社会に対しての批判精神はかなりのもので、むしろ否定的である、全否定的である。自分自身のことは完全に棚上げで、である。つまり小さい。

彼女が亡くなってから20年になろうとしている

はやいものだ。彼女の子どもももう成人している。それどころかもう30になるだろうか。彼女の子どもが僕の子どもであるはずはないけれど。はずはないけれど。くり返して書けば。曖昧はかえって確定表現に変わる。怪しげな意味をもってくる。寒さの嫌いな女性だった。

2014-02-05

あれじゃあさ

キツネじゃなくてタヌキだよ。かつて妻は彼女のことをキタキツネと呼んだ。彼女のことが嫌いだったのだ。そのとき、妻はまだ妻ではなかったわけで、私とつきあっていたのは彼女だったのだけれど。だからこそ彼女はキタキツネと呼ばれ疎まれていたのだった。残念なことは僕自身はキタキツネを好きだったということだ。それは蔑称になってはいなかった。

そうだ

書くもの全てに意味があるわけではない。文章をお金に換えるようになってから、まともな文章が書けなくなってきているように思うのだ。そもそもまともな文章などはじめから書けてはいないのではあるけれど。